憧れのハラレ Harare, Zimbabwe

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ハラレには2度滞在した。最初は1988年3月、任国外旅行の最後の都市として、
次いで帰国間際の同年8月だった。

ハラレ地図 ジンバブエ地図

【ハラレへ】

 ナイロビからケニヤ航空でハラレに着いた。機中から見るハラレの街は整然とし、各住宅の区画がはっきりと目視でき、多くの住宅にはプールがあることも見えた。まるでカリフォルニアの住宅街上空でも飛んでいるかのようだった。

 飛行機がターミナルに近いところに止まり、タラップが付けられ降りていくと人が集まっていた。マスコミのようだ。囲まれている中央の人をみると、小柄な黒人で司祭の服を着ていた。近くまできて覗き込むとテレビの中で見慣れていた、南アフリカのデズモンド・ツツ大司教だった。

 ハラレの空港は整然としていて手続きもスムーズに進んだ。どこかアフリカを感じさせないヨーロッパの小都市の空港のような印象を受けた。独立後10年を経ていないジンバブエはかつて英国が植民地としていた南ローデシアの面影なのだろうか。同じ英国の植民地であり北ローデシアと呼ばれていたザンビアは64年に独立したが私が滞在した80年代後半は悲惨な状態だった。遠からずジンバブエもそうなるのだろうか。



 週末に着いたので街中は閑散としていた。公園では子供たちがブランコやシーソーなどの遊具ではしゃいでいた。はたして他のアフリカ諸国でこんな光景が見られるだろうか?(私のこれまで見たアフリカでは考えられなかった)

 公園の広場には軟らかい石を彫刻したお土産を売っていた。爪でも傷がつくほど軟らかい石だった。



 ハラレの中心にモールがあったので一とおり歩いてみた。日曜日だったのでお店は残念ながらほとんど閉まっていた。ファーストフードやレストランが若干店をあけていた。”竹園Bamboo Garden”という中華料理屋があったのを覚えている。なぜ覚えているかというと、ザンビア派遣の間で話が出ていたからだ。

 ショーウインドウにはバーグラバー(泥棒避けの鉄のバー)などまったくなくザンビアとの治安の違いを感じた。マネキン人形が白人と黒人の2種類あったのが印象に残っている。



 ハラレは緑が濃い。街路樹や植え込み、また、公園とオープンスペースの配置が欧米、きっと英国様式なのだろう。また、噴水など水を多く使うなど都市の豊かさを感じた。



Harare, Aug 1988
One Sunday Afternoon
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