ザンビア Zambia 残光 ノート

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ザンビアへの道程

 ザンビアへは日本からどうやっていくのか?

 直行便などあるわけわなく、ハブ空港を経由してルサカへ行くしかなかった。これは今も同じ。 私がザンビアへ行ったときの行程は、成田-アンカレッジ経由-ロンドン-ナイロビ-ルサカだった。

 当時、ロンドンから直行便があったのになぜこのような旅程だったのか?直行便であれば乗り継ぎリスクがなくなる。

その他の主要ルート
1)成田-アンカレッジ経由-ロンドン-ルサカ(ロンドンからBAの直行便)−私のルート
2)成田-アンカレッジ経由-パリ-ルサカ(パリからUTAの直行便)−このルートで一度帰国した
3)成田-カラチ-ナイロビ-ルサカ
4)成田-パース-ハラレ-ルサカ
などであった。

足掛け2日はかかっただろう。南十字星が輝く南半球、とにかく遠かった。



ザンビアに住んでいた日本人

 ザンビアでは当時どのような目的で日本人が住んでいたのだろうか?拾い上げると以下のようになる。

1)日本大使館職員(専門調査員、派遣員、大使公邸料理人を含む)
2)JICA職員(JOCV調整員を含む)
3)JICA専門家
4)青年海外協力隊員
5)民間企業職員(商社、建設コンサルタント、建設会社等)
6)NGO職員(難民を助ける会(メヘバ))
7)宗教関係
8)学術調査関係(タンガニーカ湖魚類調査(短期))
など

当時、在留邦人は全てあわせても200人程度ではなかっただろうか。

 

熱帯高地と感染症

 ルサカは標高約1200mの熱帯高地に位置し乾燥していて健康的なのですがザンビアは感染症のデパートとも呼ばれほど症例は豊富のようです。

 マラリアはルサカにあっては罹らないと聞いていた。ルサカでマラリアに罹る場合ルサカから出て低地でハマダラ蚊に刺され、ルサカへ戻って発病というケースが考えられた。これはあくまでも推測なのでなんともいえないが、職場のザンビア人がよくマラリアで数日寝込んだということをよく聞いていたので本当のところどうだったのだろうか。協力隊員の場合はルサカに暮らしている限りにおいては問題はなかった。

 A型肝炎は経口感染なので食べ物には気を付ける必要があった。生ものは口にすべきではない。我々の世代は抗体をもっていないので特に気をつける必要があった。ザンビア人はきっと抗体が子供の頃に出来ているのだろう、そんな病名は聞いた事がなかった。

 B型肝炎が発症した人を見たが、顔が黄色かった。B型の場合は性感染症または輸血で感染する。

 ザンビア人に多かったのが結核。日本人にはほとんど無縁であったがまだまだザンビアでは猛威を振るっていた。

 その他、耳にした感染症では、アメーバ赤痢、ランブルべん毛虫、細菌性の熱などがあった。アメーバ赤痢やランブルべん毛虫は感染だけで発症はしなかったようだ。検便等で見つかる。細菌性の熱は、擦過傷、例えば転んですりむいたなど、数日すると熱がでたりした。

 感染症が克服されればルサカのような熱帯高地はきっと長生きが出来る土地になることだろう。


北ローデシア

 1964年10月の独立までは、英国領北ローデシアという国でした。過去の大戦にも北ローデシアで兵を送っています。

 東京オリンピック(1964年)の開会式は北ローデシア国旗で入場行進し、開催中に独立、閉会式はザンビアの国旗で行進した。


カウンダ大統領

 私が赴任したときの大統領は独立を勝ち取ったカウンダ大統領が長年の政権を維持し顕在であった。

 ダーク色のサファリスーツを着、白いハンカチを左手にして演説する姿はトレードマークだった。

 一度だけ直接演説を聞いたことがある。演説の前にチテンゲを着たザンビア女性が雄たけびのようなものを上げ前座を行い、それから、彼がザンビア英語で演説した。演説はその都度ローカル言語に通訳された。

ビクトリアフォールズ

 世界三大瀑布に数えられます。アフリカの大地が描く自然の造形美といっても過言ではありません。今は国境の橋の上からバンジージャンプがあるらしいが、私としてはそんなものは止めてほしいと思っている。


デビッド・リビングストン

 ビクトリアフォールズをビクトリアフォールズと名づけた英国人宣教師(ということになっている)。現地の言葉では、モシ・オ・トゥンヤ(霧が立ち上がる)。

 ムクシの辺りで亡くなり、バガモヨ(タンザニア)まで運ばれ、そこから亡骸が英国へ移送された。ムクシには記念碑があるという。

 リビングストンの名はビクトリアフォールズのザンビア側の町の名としても残っている。

ソニークロフト・ジラフィとサウスルアングア国立公園

 ザンビアにしかいないキリンの種類(亜種)。ザンビアでもサウスルアングア国立公園内だけらしい。当時、東部州の州知事だったソニークロフトさんが発見したので彼の名前がついている。どこが他のキリンと違うかというと、網目の模様だそうだ。

 職場の上司であった公共事業省建築局次長がThonicroft氏だった。彼は、孫にあたる。


同志 Comrade

 もうこんな言葉は新聞には出てこないだろう。本家が崩壊したのだからそうに違いない。私がルサカに暮らしていた80年代後半、Times of ZambiaではよくこのComradeを敬称に使っていた。


クワチャ

 ザンビアの通貨はクワチャ(kwacha)といい、1クワチャ=100ングエだった。紙幣と硬貨があったが、私が暮らした2年間でもインフレが激しく、後半はングエ硬貨は流通しなくなっていた。

 聞くところによると、現在の交換レートは1ドル=5000クワチャだという。当時は1ドル=5−6クワチャだった。

 カウンダ元大統領の肖像が印刷されたクワチャ紙幣、もうないだろうね。クワチャって夜明けという意味だったかな?


クワチャ紙幣

IFA製トラック

 東ドイツIFA製のトラックがザンビアの各地で走っていた。これは軍用車であったがその役割よりも一般的な役割のほうが必要だったのであろう。メイズや他の農産物などを満載して走っていた。どうも、直ぐに故障するらしくスクラップ置き場には何十台のIFAが放置されていた。

 

Peter's Stake House

 ノースミード商店街の一角にあったステーキハウスとバー。ここのスペアリブは隊員の間では名が知れていた。その他に、Tボーンステーキ、フィレステーキ、タンドーリチキンなどがあり、どれもいい味だった。地方隊員はルサカへ出てこのステーキハウスで食事することを楽しみにしていた人も少なくなかった。

私の記憶より

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